たまにはこんなお話も。
昨日はブログの更新をすればいいのですが、久しぶりに映画を見ました。
以前にも見た映画で、結構長い映画です。
3時間ちょいとかあるのかな?
愛のむきだしってタイトルの映画です。実話をもとにした映画なので未だ見ていない人にはオススメかも。
タイトルがタイトルなので愛の表現、愛の形を題材にした映画になっていて、
オウム真理教的な変な洗脳する新興宗教とかの事も出てきます。
その中で私も好きな聖書の箇所がコリント人への第一の手紙第13章
その中で強烈に印象に残るのは
使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である。
第13章(CHAPTER 13)
- たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。
- たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
- たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。
- 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、
- 不作法をしない。自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
- 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
- そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
- 愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。
- なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
- 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
- わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
- わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。
- このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。
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