陰と陽
善と悪
対極にあるとは以前からこのシリーズで言ってますが。
更に掘り下げていきたいと思います。
今回も少々長くなりますが、お付き合い下さい。
対極にあるとは以前からこのシリーズで言ってますが。
更に掘り下げていきたいと思います。
今回も少々長くなりますが、お付き合い下さい。
陰陽
素粒子と反素粒子
今までもブログで書いてきました。
その中でも今回は闇と言いましょうか、影と言いましょうそういった所にも
スポットを当ててみますかね。
イスラム
マレーシア(イスラム)
このように国旗をみるだけでも、必ずどこの国もその国の宗教観が反映されていたりします。
宗教はその国の文化や経済、思想、政治、色々な分野に深く関わっています。
こうした光と影の二元論は特に
グノーシス主義と言われる思想に色濃く現れています。
反宇宙的二元論とか言われています。
それにはこうあります。
グノーシス主義において一般的に認められるものは、「反宇宙的二元論(Anti-cosmic dualism)」と呼ばれる世界の把握の仕方、世界観である。反宇宙的二元論の「反宇宙的」とは、否定的な秩序が存在するこの世界を受け入れない、認めないという思想あるいは実存の立場である。
- 反宇宙論
- グノーシス主義は、地上の生の悲惨さは、この宇宙が「悪の宇宙」であるが故と考えた。現象的に率直に、真摯に、迷妄や希望的観測を排して世界を眺めるとき、この宇宙はまさに「善の宇宙」などではなく「悪の宇宙」に他ならないと考えた。これがグノーシス主義の「反宇宙」論である。
- 二元論
- 宇宙が本来的に悪の宇宙であって、既存の諸宗教・思想の伝える神や神々が善であるというのは、誤謬であるとグノーシス主義では考えた。ここでは、「善」と「悪」の対立が二元論的に把握されている。善とされる神々も、彼らがこの悪である世界の原因であれば、実は悪の神、「偽の神」である。しかしその場合、どこかに「真の神」が存在し「真の世界」が存在するはずである。
- 悪の世界はまた「物質」で構成されており、それ故に物質は悪である。また物質で造られた肉体も悪である。物質に対し、「霊」あるいは「イデアー」こそは真の存在であり世界である。
グノーシス主義(グノーシスしゅぎ、独: Gnostizismus、英: Gnosticism)またはグノーシス(古希: Γνῶσις、ラテン文字転写:Gnosis)は、1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教・思想の1つである。物質と霊の二元論に特徴がある。普通名詞としてのグノーシスは古代ギリシア語で認識・知識を意味する言葉であり、グノーシス主義は自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想傾向を有する。
またグノーシス主義は、地中海世界を中心とするもの以外にイランやメソポタミアに本拠を置くものがあり、ヘレニズムによる東西文化のシュンクレティズムのなかから生まれてきたものとも云える。代表的なグノーシス主義宗教はマニ教であるが、マニ教の場合は紀元15世紀まで中国で存続したことが確認されている。
マニ教
とグノーシスでは言っています。
言ってしまえば、神の本質は両方ですから。光も闇も神だからです。
そして、闇から光が生まれたわけです。
旧約聖書でも書いてますね。
旧約聖書 創世記 第1章 via kwout
中国の老子では
有と無は
同じものが、その状態の変化によって、名前の形を変えて存在する。
生と言い、死と言うのも、それらは、一時の状態の変化に過ぎない。
始めも終わりもない。
実体のない道の世界と、実体のある名の世界は
いずれも玄を根源とするものである
玄の奥底に万物の源がある
(玄)とは上記の解説にあるように闇の事ですね。
つまり闇が万物を生み出したと言っているわけです。
闇が光を生み出したわけですね。
光があれば必ず闇が存在しますが、闇があっても光は存在しなくてもいいわけです。
闇は独立した存在なんですね。
宇宙の闇、全ての始まり、宇宙の意思は、光を求めた。
闇とは意思や想念、思いです。
光とは、それらの想念が物質化したもの、具現化したものを表します。
光が無ければ物は見えないわけで、思いがなければ創造出来ない。
万物は生まれない。
思いだけではどこまでも思いでしかない。
我々が今いる3次元の世界では、思い、想念は物質にはカウントされません。
普通、目に見えない物はカウントされないんです。
しかし、想念や波動、その他、目に見えない物は実在するわけです。
この世が生まれたのは闇の中の思い、想念、それらが具現化した訳です。
宇宙の誕生は、現在物理学では行き着くところは点に成ります。
遠方の銀河がハッブルの法則に従って遠ざかっているという観測事実を、一般相対性理論を適用して解釈すれば、宇宙が膨張しているという結論が得られる。宇宙膨張を過去へと外挿すれば、宇宙の初期には全ての物質とエネルギーが一カ所に集まる高温度・高密度状態にあったことになる。この初期状態、またはこの状態からの爆発的膨張をビッグバンという。
物理では理解出来ないんです。
知らない次元の話だから。
粒子が細かすぎて
粒子が細かすぎて
見えない次元だから。
点が思い、想念なんですね。
思いの爆発がビッグバンとでも言うのでしょうかね。
私達全ての中に宇宙が存在していて、
私達は宇宙の一部であり、神の一部でもあるわけです。
なので皆繋がっているわけです。
潜在意識、顕在意識とありますが、潜在意識の更に深い場所では繋がっている訳です。
そういった潜在意識の波動を読み取ったりするわけですが。
地球で考えれば
地球の表面に現れている陸地、大陸、島、見えている部分
が我々の顕在意識だとします、
この地球の水を抜いてしまえば?
実は島や大陸等は無く、皆繋がっているわけですよね。
この海の水を抜いた状態が潜在意識の更に奥の宇宙意識です。
そういった感覚状態、以前にも書きましたが、
意識を気体意識、宇宙意識にシンクロすれば
気体意識が神への合一化、宇宙との一体化
逆は個の認識になるわけです。
人間の脳も左右で出来ていますね。
光と闇と同じです。
私も龍神様が現れて私に仰ったことは(勿論テレパシー)この宇宙は善悪の
2極がコインの裏表として存在してて、切っても切れない関係になっている。
頑張らないと闇に支配される。
しかし、闇が必ずしも悪いということではない。
闇と光は必ず交わることは出来ない関係。
コインの裏表だけど闇に染まるなと。
暗い神々の雲が現れ白の神々と戦い始める。
そして互いに交わること無く陰陽の形になった。
黒い闇の神々が現れた時に私に息吹を送ってきたんですね。
白い神々にも息吹頂いたのですが、
黒い神々の息吹も私は受け入れたんですね。
沢山ではないけど拒否反応なく。
それが、今考えれば陰陽の両極の中にある小さな点なのかなと思っています。
しかし、これらの事を認めない団体が
グノーシス主義や、それに関係のあるマニ教等を弾圧した
訳です。善悪の関係からすればこれも必然なのですが。
グノーシス主義や、それに関係のあるマニ教等を弾圧した
訳です。善悪の関係からすればこれも必然なのですが。
創造と破壊、死と再生、光と影は共存しない。
しかし、両極は実は同じ神。
スートラでも、
両極端は一致する。
動いているコマと、止まっているコマ。
正反対はよく似ている。
光の欠如は闇、
光を増加させ続けると闇となる。
しかし、両極は実は同じ神。
スートラでも、
両極端は一致する。
動いているコマと、止まっているコマ。
正反対はよく似ている。
光の欠如は闇、
光を増加させ続けると闇となる。
右目
フリーメイソンとかでよく知られているプロビデンスの目
左目とは右脳を司るわけです。
右脳は創造ですね。
逆は左脳、左脳は思考を司ります。
光が無くても左脳は思考なので問題ありません。
例えば瞑想なんかも光は必要なく、創造もいらない。
兎に角、無我を目指したりするわけです。
左目は=右脳の創造、物質を表し
右目は=左脳の思考、精神を表す
そもそも違うカテゴライズなので混ざり合うことは出来ない。
破壊と創造を繰り返す。
物質文明は精神文明を理解できないし、
精神文明も物質文明を受け入れません。
精神文明も物質文明を受け入れません。
先ずはこれらの存在を認め
旧約にもあるように神が光を求め、創りだしたんですね。
悪を知らない善は本当の善ではない。
破壊が無ければ、新たな物は生まれないし、再生もない。
悪い面だけではない。
物の見方角度によって、その物事の本質は変わる。
一方からすれば神でも、もう一方からすれば悪魔に映る。
悪を知らない善は本当の善ではない。
破壊が無ければ、新たな物は生まれないし、再生もない。
悪い面だけではない。
物の見方角度によって、その物事の本質は変わる。
一方からすれば神でも、もう一方からすれば悪魔に映る。
それを踏まえ現在の世界における闇と光を
見て行きたいのですが。
その前にグノーシス主義の対極の考えは
ヘルメス主義とグノーシス主義は互いに共通のイメージ(神話、プラトン哲学、聖書など)を用いる[要出典]が、前者が親宇宙的(Pro-cosmic)であるのに対して、後者が反宇宙的(Anti-cosmic)である点が異なる。創造主の否定につながるグノーシス主義が正統派のキリスト教と相容れないのに対し、ヘルメス主義は必ずしもキリスト教と矛盾するものではない。
ギリシア神話のヘルメス神と、エジプト神話のトート神がヘレニズム時代に融合し、さらにそれらの威光を継ぐ人物としての錬金術師ヘルメスが同一視されてヘルメス・トリスメギストスと称されるようになった。それら3つのヘルメスを合わせた者という意味で「3倍偉大なヘルメス」「三重に偉大なヘルメス」と訳される。(三人の賢者(ヘルメス)の伝説(三重の知恵のヘルメス))
- 第1のヘルメス:ノアの洪水以前にいた神。アダムの孫という。衣服、ピラミッドを作ったという。天文などを研究したという。
- 第2のヘルメス:ノアの洪水以後のバビロンにいた人。ピタゴラスの師という。医学、数学などに優れる。
- 第3のヘルメス:エジプトの人。医学者、哲学者。都市計画をしたという。
「ヘルメス思想」とはヘルメス・トリスメギストスにあやかって世界の神秘を味わい尽くそうとする思想のことを指す。
ヘルメス・トリスメギストスが「トリスメギストス」の名を持っている理由の説明としては、エメラルド・タブレットの「全世界の英知の三部門を知る」という記述を根拠にするものがある。この3つの分野の知識とはすなわち錬金術・占星術・神働術(en:theurgy)である[10]。
エメラルド・タブレット(英: Emerald Tablet, Emerald Table, 羅: Tabula Smaragdina)は、錬金術の基本思想(あるいは奥義)が記された板のこと。エメラルド板、エメラルド碑文とも。 ただし、現存するのはいずれもその翻訳(と称する文章)だけで、実物は確認されていない。
伝説によると、この碑文はヘルメース自身がエメラルドの板に刻んだもので、ギザの大ピラミッドの内部にあったヘルメス・トリスメギストスの墓から、アブラハムの妻サラあるいはテュアナのアポロニオスによって発見されたものであるという。あるいは、洞窟の中でエメラルドの板に彫りこまれたのをアレクサンダー大王が発見したともいう。
12世紀にアラビア語からラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパにもたらされた。最初期のラテン語訳には、セビリャのフアン(en:John of Seville)によって翻訳された偽アリストテレスの『秘中の秘』(1140年頃 en:Secretum Secretorum)に含まれるものや、サンタリャのウゴによるものがある。17世紀のイエズス会士アタナシウス・キルヒャーによる訳が広く知られている。パラケルススは、シュポンハイムの僧院長ヨハネス・トリテミウスが父ヴィルヘルムに贈ったエメラルド・タブレット(診療室に貼ってあった)を見て育ったという。1828年にエジプトのテーベの墳墓から発見されたライデン・パピルスには、ギリシャ語のエメラルド・タブレットが含まれていた[1]。
これに記されたうちで最も有名な言葉は、錬金術の基本原理である「下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし」であろう。これは大宇宙と小宇宙の相似ないし照応について述べたものである。
アメリカ合衆国のミュリエル・ドリールが1939年、1948年に編集出版した著作[2]によると、1925年にメキシコのユカタン半島のピラミッドので12枚のエメラルド色のタブレットを発見して写しとり、翻訳後にタブレットをピラミッドにもどしたという。これはオリジナルのエメラルド・タブレットであり、著者はアトランティス人トート(紀元前5万年から紀元前3万6000年の約1万6000年間古代エジプトを支配し大ピラミッドを作ったという)で、彼が5万歳のとき(ヘルメス・トリスメギストスの2回目の転生であるという)著したという。タブレットIに『われ、アトランティス人トートは、諸神秘の精通者、諸記録の看守者、力ある王、正魔術師にして代々代々生き続けるものなるが、今やアメンティーのホールに去り行かんとするにあたり、後世の手引きとせんため、偉大なるアトランティスの強大なる智恵の記録を書きとどめんとす』と記載されているとされ、このエメラルド・タブレットはアトランティスの巨大なる智慧の記録であるとされている。なお、通常のエメラルド・タブレットはヘルメス・トリスメギストス3回目の転生時のもので、劣るものだという。
ヘルメス 左目
グノーシスが右目で(精神)
左目(物質)がヘルメスになるのです。
どちらが善でどちらが悪って事ではないのです。
そもそも宇宙には善悪などないからです。
必要悪などとも言いますよね。
それが宇宙の法則なのです。
またホムンクルスのように、無生物から人間を作ろうとする技術も、一般の物質から、より完全な存在に近い魂を備えた人間を作り出すという意味で錬金術と言える。
錬金術に携わる研究者を錬金術師と呼ぶ。特に高等な錬金術師は、霊魂の錬金術を行い神と一体化すると考えられたので、宗教や神秘思想の趣きが強くなった。
『ヘルメス文書』はあるアラブ人の手によってエジプトのギザの大ピラミッドの内部にあるヘルメス・トリスメギストスの墓から発見されたといわれるエメラルド板に記された文書である。当然ながら原版は現存せず、中世に書かれた写本が現在に残る最も古い完全な写本である。そのためその歴史的信憑性は長年怪しまれてきたが、1828年エジプトのテーベで発見された[9]魔術師の墓から見つかったパピルス[10]に『ヘルメス文書』、『エメラルド・タブレット』の写しの一部が記述されていたため、現在ではその歴史的価値は一応認められているといえよう。ちなみにこのパピルスは現在「ライデン・パピルス」と呼ばれ[10][9]、エジプト考古学博物館に保管されている。
錬金術は、中世ヨーロッパの非キリスト教に対して行われた弾圧に対して、弾圧される側の人々が非キリスト教的な知識や行動をごまかすために使った手段である。カール・グスタフ・ユングが「錬金術は、地表を支配しているキリスト教に対して、いわば地下水をなしている」というものである。錬金術は相対立する物質(要素)をフラスコの中で溶解させることで新たな物質を作り出し、相異する二つの卑金属を合成して黄金などの成果を生み出すことで、神秘主義や魔術を含む異教の知識に関わっていた人々が、富豪や権力者の保護を受けることが出来た。
循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)など、意味するものは広く、多くの文化・宗教において用いられてきた。
循環性(悪循環・永劫回帰)、永続性(永遠・円運動・死と再生・破壊と創造)、始原性(宇宙の根源)、無限性(不老不死)、完全性(全知全能)など、意味するものは広く、多くの文化・宗教において用いられてきた。
錬金術の対が錬丹術になるわけです。
卑金属を貴金属に変える力を持つ不老不死の霊薬「エリクサー(賢者の石)」の製造などを目的とする西洋の錬金術とは共通する部分も多いが、西洋の錬金術がどちらかというと金を作ることを主目的としていたのに対し、煉丹術は昇仙と不老不死を主目的とする点が異なる。
ヘルメス、錬金術が神の左目
グノーシス、煉丹術が右目
そして、煉丹術と言えば
そして、煉丹術と言えば
陰陽の対極、道教タオで
東洋のクンダリニー覚醒
その過程に出てくるのが気功で言うところの
大周天、小周天になるわけですね。
内丹術(ないたんじゅつ)は、天地万物の構成要素である「気」を養うことで、自己の身中に神秘的な霊薬である「内丹」を作り、身心を変容させて、道(タオ)との合一を目指す、性命を内側から鍛練する中国の伝統的修行体系である。
老子とは別に道教の源流の一つとなった神仙とは、東の海の遠くにある蓬莱山や西の果てにある崑崙山に棲み、飛翔や不老不死などの能力を持つ人にあらざる僊人(仙人)や羽人を指す伝説である。やがて方術や医学が発展すると、人でもある方法を積めば仙人になれるという考えが興った[6]。
『漢書』芸文志・方技略・「神僊」には10冊の書名が書かれているが、いずれも現代には伝わっていない。しかしそこに使われた単語から内容を類推できる。「歩引」は馬王堆から発見された図「導引」と等しく呼吸法などを含めた体の屈伸運動で、長生きの法の一つである。「按摩」は現代と同じ意味、「芝菌」は神仙が食べたというキノコ、「黄治」は錬丹術を指す。これらは黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされていた[6]。また『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論であった経絡や陰陽、また針灸などの技法)、「経方」(本草すなわち薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った[6]。
伏羲(ふっき・ふくぎ、- Fu Hsi または Fu Xi、紀元前3350年~紀元前3040年)は古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。宓羲・包犠・庖犠・伏戯などとも書かれる。伏義、伏儀という表記も使われる。三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は鳳(凤)姓。兄妹または夫婦と目される女媧と同様に、蛇身人首の姿で描かれる。伏羲の号には、縄の発明者葛天氏も含まれる。また、現在の中国では、中華民族人文の始祖として崇拝されている。
伏義と女禍の手にしているのは?コンパスと定規
太陽と月
太陽と月
陰陽の太陽、太陰
その事を実によく表していますね。
太陽の中に小陰、太陰の中に小陽
太陽が光善だとし、光も行き過ぎれば闇になり
闇も光を照らす。
正反対はよく似ている。
光の欠如は闇、
光を増加させ続けると闇となる。
錬金術は金を錬成するために、物理的なアプローチで、化学を生み出し
煉丹術は不老不死や東洋医学、精神、タオ、風水、陰陽、仙道等を生み出す。
しかし、違う方面からのアプローチでも
化学も究極の所は分かりませんってなるんですね。
想念とか人間の思い等の力の存在を無視するから。
化学も行き着く所は、極小の素粒子研究に辿り着き。
非局所性の定理や観測者効果になるわけで。
一つの出来事から生まれた二つの粒子は、どんなに遠くに離れた後でも、 観測によって一方の状態を決めると、 もう一方の状態も瞬時に決まってしまう。
今、ある瞬間に相互作用をした二つの粒子を考え、 両者のスピンの合計が ゼロであるとすると、スピンの保存則が守られるため、 片方がスピン+1であれば、相方は必ずスピン-1となる。 このような関係を「量子的もつれ」(quantum entanglement)と言い、 こういった二つの粒子は量子相関対(EPR相関対)と呼ばれる。
相互作用した瞬間の二つの粒子は、 各々スピン±1の状態の重ね合わせにある。 その後、二つの粒子が何光年か離れた後に、 片方の粒子のスピンを観測し、例えば+1に決定されたとすると、 その瞬間に、もう一方の粒子のスピンは-1に決定される。
どんなに離れていても情報を非局所的に瞬時で伝えられるこの特性は、 盗聴不可能な量子暗号通信の基礎理論となっている。
相互作用した瞬間の二つの粒子は、 各々スピン±1の状態の重ね合わせにある。 その後、二つの粒子が何光年か離れた後に、 片方の粒子のスピンを観測し、例えば+1に決定されたとすると、 その瞬間に、もう一方の粒子のスピンは-1に決定される。
どんなに離れていても情報を非局所的に瞬時で伝えられるこの特性は、 盗聴不可能な量子暗号通信の基礎理論となっている。
ベルの不等式の破れが1982年アラン・アスペらにより検証されたことなどにより、局所性を仮定した隠れた変数理論では量子論は記述できないことが明らかになっている。非局所的な隠れた変数理論を主張する物理学者も存在するが相対論との相性は極めて悪い。
しかし、物理の相対論とは相性が極めて悪いって当たり前なんですね。
これなんて、東洋的には空の考えで、全ては繋がっているんですね。
空とは、仏教の因果論の究極形であり、因果および因縁の複雑な連関である(したがって、空を理解するにはまず因果および因縁を理解する必要がある)。この世のすべての物事(色)は相互に因縁によって結びつき、ある現象を構成している。この因縁の関係性こそが「空」だという考えである。[5]
例えば、そこらの草木を建材として庵を結ぶ場合、庵は草木から作られ、さらに草木も微細に分解していくことができ、どこにも庵という現象は成立していないことになる。つまり、庵は「存在している」とも言えず、「存在していない」とも言えない。このような「有る」と「無い」の二つの極端を離れたあり方を空という。
一即一切・一切即一なんですね。
科学における観察者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える変化を指す。例えば、電子を見ようとすると、まず光子がそれと相互作用しなければならず、その相互作用によって電子の軌道が変化する。原理的には他の直接的でない観測手段でも電子に影響を与える。実際の観察をしなくても、電子が観測可能な位置に単に入っただけでも、理論上はその位置が変化してしまう。
人間の意識、想念で粒子、波動は変化して影響を与えるんですね。
全ては相関して密接に結びついているんです。
西洋の錬金術や東洋の錬丹術も
最終的、究極的にはそういった物事の現象を通して
理解、悟るために与えられたハテナ?questionだったのでしょう。
善悪の判断で、
近世洞門の禅傑といわれた原担山(たんざん 1819-1892)と久我環渓和尚(1813-1884)が行脚中。連日の雨で濁水が勢いよく流れる川に行き会った。丸木橋は朽ちて渡れそうにない。
若い町家の娘が川を渡りかねて立っている。
草鞋のまま川に入ろうとした担山がつかつかと娘のそばにより
「お困りのようすじゃが、渡してしんぜよう」
娘は顔をあからめたが、はにかみながらも担山に抱かれて川を渡った。
二人の僧は娘と別れて道を急いだ。しかし僧が娘を抱いたということで環渓の心はおだやかではなかった。たまりかねて
「おい、担山和尚。出家の身でなんで女を抱いたりしたのだ」
担山はからからと笑って言った。
「なんだ、貴公はまだ女を抱いていたのか。わしはあの時放してしまったよ」
若い町家の娘が川を渡りかねて立っている。
草鞋のまま川に入ろうとした担山がつかつかと娘のそばにより
「お困りのようすじゃが、渡してしんぜよう」
娘は顔をあからめたが、はにかみながらも担山に抱かれて川を渡った。
二人の僧は娘と別れて道を急いだ。しかし僧が娘を抱いたということで環渓の心はおだやかではなかった。たまりかねて
「おい、担山和尚。出家の身でなんで女を抱いたりしたのだ」
担山はからからと笑って言った。
「なんだ、貴公はまだ女を抱いていたのか。わしはあの時放してしまったよ」
久我和尚は担山和尚が女性を背負った時にヨコシマな心がよぎり
担山和尚は困っているから当然の事をしただけなんですね。
しかし両者の心の中は雲泥の差。
住んでいる世界が違うんですね。
戒律に縛られるあまり、本来あるべき人間の善性を見失い
戒律を守る事こそ善、正しい道だと思い込み。
担山和尚は戒律などには縛られない心を持っていた。
善悪の逆転を表した逸話です。
シーズン4に続く。
プロビデンスの目について、私の考えでは、右目でも左目でもなく第三の目である「松果体」のことだと思ってました。
返信削除松果体が開眼すれば右脳と左脳どちらも同時に働きますし、だからプロビデンスの目は一つの目で表現されてるのかなって勝手に解釈してました(^^)
cotoさん
返信削除サード・アイを開かなければ宇宙意識を目覚める事ができないので、松果体を開くことは勿論
我々人類が目指さなければいけない事なんですね。だから、cotoさんが思っていた事も間違ってはいませんよね^^
そうなるように神々がこの地球に計画されている事です。
左右を知り上下を知る。知った上でどこに心を進めるかって事ですかね^^
そういえば~、去年私がコメントつけたブログ記事思い出しました。
返信削除http://s.webry.info/sp/bloom.at.webry.info/201203/article_3.html
ピラミッドと般若心経についてです。
プロビデンスの目と関係あるかはわからないですけど(^^)
cotoさん
返信削除ブログ拝見致しました。いつも有難うございます。
大変興味深いですね。