昨日の続きです。ってか補足です。
平沼騏一郎墓(安国寺) via kwout
やすくにでら
安国寺 - Wikipedia via kwout
臨済宗 - Wikipedia via kwout
臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)のひとつで、唐の臨済義玄(? - 867年)を宗祖とする。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。
現在の日本の臨済宗は江戸時代に白隠が再興したもので、唐代とは大きく異なり、公案に参究することにより見性しようとする看話禅(かんなぜん)に変貌を遂げている。この家風は、坐禅に徹する曹洞宗の黙照禅と比較されることがある。
春光院 - Wikipedia via kwout
春光院 - Wikipedia via kwout
豊臣秀吉に仕え、後、松江開府の祖となった堀尾吉晴が、長子堀尾金助を小田原の戦いで失ったので、その菩提を弔うため、天正18年(1590年)に建立した寺である。当初の寺名は金助の戒名「逸岩世俊禅定門」に因んだ俊巖院(しゅんがんいん)である[1]。堀尾家は三代忠晴が、大坂冬と夏の陣で徳川側に味方して功を立て、藩内の治政にも見るべきものがあったが、その忠晴が寛永10年(1633年)に病死し、嫡子がなかったため断絶した。その後、忠晴の息女が石川家に嫁いでいたことから、石川憲之が檀越になり、寛永13年(1636年)に、寺号を春光院と改称した。
近代日本を代表する禅思想家の久松真一は、戦中・戦後の一時期を春光院で過ごし、当寺院で鈴木大拙と禅や近代哲学について語り合った。春光院は日本の禅が世界の禅になるために重要な役割を果たした場所のひとつである。
春光院 - Wikipedia via kwout
- 南蛮寺鐘(南蛮寺の銅鐘) - 方丈東にある銅鐘は「南蛮寺鐘」と称し、織田信長が京都に建立を認めた南蛮寺(キリスト教会堂)で用いられていた。寺伝によればポルトガル製の鐘で、側面の周囲に太陽の文様の中に十字架とIHSの文字を組み合わせた円文を四方に鋳出し、そのうち一方に1577年(日本の天正5年)の西暦年号を鋳出している。「IHS」はイエス・キリストを意味し、ギリシャ語の「イエス」の最初の3文字、あるいはラテン語の「人類の救い主イエス」の頭文字とされる。
嘉永7年に仁和寺より当院へ伝来したが、その際、幕府の目をおそれて朝鮮伝来の鐘とされた。
右京区・花園にある妙心寺の敷地内にある春光院には、「朝鮮伝来の鐘」という名目で(キリシタンのものであると分かっていたがそれを故意に隠すためと思われる)、京の最初の南蛮寺の鐘がここに伝えられている。表面に1577と、西暦がアラビア文字で書かれ、IHSと刻まれている。
イエズス会
この日本人ばなれしたお顔立ちは ? そんで肩の家紋は?
ポルトガル人のザビエル
曹洞宗総大持寺と右曹洞宗永平寺。あれよく見ると斜めの十字架がここにも・・・
桐紋 - Wikipedia via kwout
曹洞宗の紋
美作安国寺・鶴山八幡宮 via kwout
鶴
1932年(昭和7年)、上智大生靖国神社参拝拒否事件が起きる。この事件を受けて、ローマ教皇庁福音宣教省(長官はピエトロ・フマゾーニ・ビオンディ枢機卿)が1936年(昭和11年)に訓令「祖国に対する信者のつとめ (Pluries Instanterque[34])」を駐日教皇庁使節パウロ・マレラ大司教に宛てて送り、愛国心の表明としての靖国神社参拝が容認される[35]。
終戦後も靖国神社が存続したことについて、以下のような逸話が語られている[40]。
戦後に日本を占領したGHQは、1945年[35]、靖国神社を焼き払いドッグレース場を建設する計画を立てていたが、賛否両論が巻き起こり収拾が付かなくなっていた。そこでローマ教皇庁代表であり上智大学学長でもあったブルーノ・ビッテル(Bruno Bitter、英語読みでビッターとなっている場合あり)神父とメリノール宣教会のパトリック・バーン (Patrick Byrne) 神父[35]に意見を求めることになった。ビッテル神父は「いかなる国家も、その国家のために死んだ戦士に対して、敬意を払う権利と義務があると言える。それは、戦勝国か、敗戦国かを問わず、平等の真理でなければならない」「靖国神社を焼却する事は、連合国軍の占領政策と相容れない犯罪行為である」[40]と述べ、次の言葉で締め括った。
- 「靖国神社が国家神道の中枢で、誤った国家主義の根源であるというなら、排すべきは国家神道という制度であり、靖国神社ではない。我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教など、いかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社にその霊をまつられるようにすることを、進言するものである」
この進言により靖国神社は焼き払いを免れたという[40]。バーン神父もビッテル神父と同趣旨の進言をした[35]。さらに1951年、ローマ教皇庁はあらためて1936年の「祖国に対する信者のつとめ」訓令を再確認している[35]。
その後、1975年には真言宗醍醐派品川寺僧侶仲田順和(のち醍醐寺第百三世座主)が教皇パウロ6世に東京裁判で戦犯となったものへのミサを行うことを依頼すると、教皇はミサを約束する[35]。パウロ6世は1978年に死亡するが、1980年5月21日、教皇ヨハネ・パウロ2世がパウロ6世の遺志を引き継ぎ、A級戦犯・BC級戦犯として処刑された人々へのミサがサン・ピエトロ大聖堂で行われ、1618柱の位牌が奉納された[41][35]。
2007年2月21日、日本のカトリック司教団は、「信教の自由と政教分離に関する司教団メッセージ」[42] を発表し、「教会は当時の布教聖省の指針に基づいて、『学生が神社で行うように政府から命じられた儀式は宗教的なものではない』とし、天皇に対する忠誠心と愛国心を表す『社会的儀礼』であるとして、信徒の神社参拝を許容しました。こうして、あの戦争に協力する方向へと向かってしまったのです。しかし戦後に日本国憲法が制定されたこと、国家神道が解体され靖国神社が一宗教法人になったこと、教会も第二バチカン公会議を経たことなどから、当時の布教聖省の指針をそのままでは現在に当てはめることはできません」として、戦前の「祖国に対する信者のつとめ」という訓令のあり方を否定した。
大=人 下に 十字架
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